新選組騒動記(弐) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 怒号と銃声が耳を塞ぎ、砂埃が渦を巻いて眼を焼いた戦場から逃れ、一月あまりが過ぎた。
 久し振りに帰る江戸の町並みは記憶と変わらないものの、人々は誰かに急き立てられてでもいるかのように、足早に道を行く姿ばかりが目に付いた。西から引き上げてきた幕軍兵士達に、戦火がいよいよこの江戸にも及ぶのだという危機感が見て取れるのだろう。まさか江戸にまではと、楽観視する裏で抱いていた漠然とした不安が、俄かに現実味を帯びていくのを誰も止めることは出来ないのか。いやむしろ、ひたひたと背後から忍び寄るこの絶望感を払拭しようと、戦場で負った傷に包帯を赤く染めた者が殊更声高に勝利を謳う声や、刀剣商や骨董屋を回って刀や鎧を集めに走る者達の必死さが、余計に今を生きるしか術を持たない人々の焦燥を駆り立てているのかも知れなかった。
 あると信じて疑いもしなかった明日というものが、実は虚ろいやすく何よりも不確かなものであったことに、皆が少しずつ気付き始めていた。
 神田和泉橋。
 その日は、昨日にもまして穏やかな日だった。
 芽吹き始めた緑に陽射しは暖かく、時折頬を微かに撫でていく風に葉桜の枝にまだ残っていた花びらが一枚ニ枚と舞う。盛りを過ぎた桜がその潔さのまま先を争うように舞い散った跡を片付ける者はなく、一つ、また一つと散っていく白い花片に、建物へと続く石畳は半ば覆い尽くされていた。
 その白い花道を軍靴で踏み締め、土方歳三は御典医・松本良順の開く医学所の門を潜った。
 土方がこの医学所を訪れたのは数日ぶりのことであった。
 肩の傷の癒えない新選組局長・近藤勇と、肺病の具合の思わしくない沖田総司が、松本医師の診察を受けるべく神田和泉橋へ向かったのが先月十五日。
 品川から無理をしてでも来たその甲斐あってか、近藤はまもなく快方に向かったものの、沖田の胸を蝕む病は快方に向かっているとも悪化しているとも言えない状態だった。近藤が退院し、横浜で治療を受けていた重傷者が転院してくる頃になっても、その病状に変化らしい変化はなかった。
 戦線から離れての静養、まして松本医師の元での治療が病の悪化をもたらすとは思えなかったが、過去に同じ病で死にゆく者を見たことのある土方は結核の本当の怖さを知っている。
 病気に気付きながら京都で送った日々は、確実に沖田の命を削っている。また大坂からの船旅も、陸路を行くよりは遥かに少ない日数とはいえ、既に普通 の生活もままならなかった身体には負担以外の何者でもない。そうして蓄積されていく疲労が病気の肥大化を招くのだ。
 少しずつ少しずつ病気は浸透していく。
 肩に落ちた雨の一滴がじわりと着物に染み込むように、それと気付かぬ内に暗い染みは静かに広がっていく。
 ―――――血の色を見た。
 啖に血が混じると言って笑いながら沖田が握り締めた掌の、血の色を見た。
 過去。病に痩せ、こけた頬とくすんだ顔色の中で眼だけが異様に大きく見えた男が、背を丸めながら吐いた血を思い出す。あれは誰だったのか。今となってはそれを思い出すことも出来なかったが、あの血の色だけは嫌に鮮明に覚えている。
 赫い、あかい血。
 自分に為す術はなく、ただ悪戯に日々だけが過ぎていくのを待つばかりだ。
 「――――副長…!?」
 遠くの葉影で小鳥が鳴き交わす声以外何も聞こえない庭で、不意に土方を呼ぶ声があった。
 「副長っ、」
 前触れもなく数日ぶりに現れた土方を見付け、まだ治療の為に残っていた新選組隊士・宮坂三郎は、その外国人と見紛うばかりの姿に驚きと感嘆の入り交じった声を上げると、不自由な足を無理に引き摺って近寄ってきた。
 土方は、表玄関へは向かわず、その横合いにある木戸を抜けて庭の方へと回っていた。
 玄関脇に立つ松の横、幾つかある飛び石を歩くと庭に出る。広く取られた庭は、所々に配置された庭木と石、橋を架けた池が、造られた当初はさぞ立派なものであったことを伺わせたが、主の性格を反映してか。今や薬草畑と、包帯や晒の翻る洗濯場と化していた。
 そこで歩く練習をしていたらしい隊士の、後年の京都で見習い隊士として自分の世話をしていた頃と変わらない嬉々とした顔に、土方は薄く笑みを浮かべた。
 その笑みへ、必ず次の戦いには復帰すると誓う宮坂に「そうか」とだけ答え、土方はいまだ新選組隊士としての気骨を失わない青年の脇を擦り抜けると、更に建物の奥へと向かって歩き出した。
 ニ歩三歩と行く、その背に。
 「―――副長っ、」
 耐え切れないような声音で宮坂が叫んだ。
 「沖田さん、また無茶してますッ」
 唐突な言葉に土方の足が止まる。
 宮坂は杖を持たぬ一方の手を固く握り締め、肩を怒らせて声高に訴えた。
 「あんなことを続けていたら本当に死んでしまいますッ! あんな、あんな無茶なことっ、」
 振り返らない背に青年は尚も言い募る。長い間心に溜め込んできたものが堰を切ったように口を突いて出るのを止める気はなかった。今言わなければ。もう遅いかも知れなかったが、それでもこれ以上の無理は止めさせなければ。その一心が言葉の端々、声の熱に篭っていた。責めとも怒りとも違う、歯痒さと焦りと悔しさとが入り交じった激情は、猛々しい若さの発する、とても判りやすい感情だった。
 だがそれは、土方のものではない。
 「宮坂」
 「!」
 突然名前を呼ばれ、宮坂は歯痒さにうなだれていた頭を反射的に上げ、「はい!」と答えて土方を注視した。
 土方は変わらず、背を向けたまま宮坂の数歩前にいる。
 惜し気もなく切られた髪が疎らに襟を隠す。
 その肩越し、ふと振り返った横顔は微笑っているように見えた。
 「―――早く治せ」
 それだけを告げ、土方は沖田の部屋のある奥へ向かい、またゆっくりと歩き出した。
 「―――――――――――――」
 石を踏む軍靴の音を聞きながら、宮坂はただその姿を見詰めた。
 見詰めるしか出来なかった。
 圧倒される。
 土方が一瞬見せた微笑に、
 その沈黙に、
 ただ祈りを込め、見詰めることしか出来ることはなかった。
 その視線を知ってか知らずか、土方は一度も振り返ることなく、縁側沿いに裏庭へと歩いていった。
 今は人影のない縁側も、一時は部屋に入り切らない患者が所在無げに並んでいたものだったが、敗戦から一月経つこの頃には既にその多くが退院し、裏手の入院部屋には殆ど人影が見当たらない。表の方は通 院患者や新たな怪我人が引きも切らず訪れていたが、こちら側まで来ると広い屋敷はその広さ故に随分と閑散とした印象が強くなる。
 そして、その最奥に沖田総司の部屋はあった。
 ふと、締め切られた障子が続く廊下に沿って歩く土方の耳に、空を切る音が聞こえた。
 断続的に続く聞き慣れたその音を注意深く聞きながら角を曲がると、庭先に立つ大の大人二抱えほどもある松の幹を睨み据え、無心に木刀を振る沖田の姿が見えた。
 「――――――――――」
 結核だと知った頃から、沖田は普段に増して稽古に熱を入れるようになった。
 元々剣術に関しては一を聞いて十を知るような沖田だったが、その才を生かし技を広げるというよりも、むしろ会得した技を一つ一つ復習い、深めることの方に時間を費やした。
 安静、休養が一番の薬だと医者は口を揃えて言ったが、頑として受け入れなかった。その代わり、様々に出される薬湯は文句も言わずに飲んでいた。
 それは今も変わらず、続けられているのだろう。
 ひゅっ、と音がするたび揺れる髪から汗が落ちた。
 また心無しか身体が細くなった気がする。
 相変わらずきっちりと結い上げた髪は肩を過ぎて、もう二の腕に掛かろうかとしていた。伸ばすつもりかと苦笑めいた笑みが浮かぶ。
 息が、次第に上がり始めた。
 いつから素振りを始めたのか、一旦息が上がり始めるとすぐに肩で息をするようになり、咳が出始めた。
 結核独特の咳を胸元から出した手拭いで押さえるに至って、沖田はようやく自分を見詰める視線に気付き、少し離れた位 置に立つ土方を振り返った。
 「‥‥‥‥‥」
 しかし気配で振り返ったものの、そこに立つ人物の洋装短髪というあまりにも意外な姿に、沖田は茫然とした顔付きで土方をじっと見詰めた。誰だか全く判らないというより、土方だとは思うのだが果 たして本当にそうなのか戸惑っているような顔だ。
 人生の半分以上の付き合いにもなる沖田にしても、そんな顔をするほど洋装とは人を変えて見せるものかと、土方が笑みを洩らす。
 その様子でようやく自分の認識が正しかったことを確信した沖田は、改めて盛大に驚いた顔をして見せると同時に、近付いてくる土方の爪の先から頭まで何度も往復して、じっくりと検分し始めた。
 「今日は随分と体調が良いらしいな」
 と声を掛けつつ縁側に刀を置く土方に近寄り、こんな間近で見るのも初めての外国製の服というものに沖田は手を伸ばした。
 「土方さん、これどうしたんですか?」
 墨染めとはまた違う風合いの黒い色。やはり着物とは違う織り方らしく、手触りも全く違う布地を物珍しげに撫でた。
 「似合うか」
 咳をしていたことも忘れて服に見入る沖田に土方がそう訊くと、沖田はすぐに「ええ」と頷き、「まるで異人さんのようですよ」と言って笑った。
 確かに土方はその端正な顔立ちも手伝って、洋装がとてもよく似合っている。黒い上着は羽織よりも若干長く、裾は膝の少し上まであった。同色のベストの金ボタンの一つには、やはり金色の鎖が引っ掛けてある。
 「これは?」
 沖田の目には小さな細工物に見える鎖を指先で遊ぶ。
 「時計だ」
 ベストのポケットから取り出した懐中時計を土方が開けて見せてやると、その手を覗き込んで笑った。
 ひとしきり時計を弄ぶと、次はそれを何処から出したのか気になったらしく、沖田は上着の前を掴み、遠慮なしに左右に広げた。
 「こっちは何ですか?」
 いかにも興味津々といった風情で顔を輝かせている沖田に、土方は苦笑すると、
 「お前には全部脱いで見せてやらなきゃならないんだな」
 上着とベストを脱ぎ、ボタンが気になるらしい沖田にベストを手渡した。
 「ほら」
 沖田はそれを受け取ると、すぐにボタンとその穴を見比べ、指を穴に突っ込んでみた。
 「この穴の中に、これを入れるんですか?」
 「そうだ」と呟き、土方はシャツの上に上着を着ると縁側に腰掛けた。
 沖田は立ったままボタンと穴とを指先で摘み、言われた通り嵌めてみようとするがこれがなかなか嵌まらない。次第に眉間に皺が寄り、目も近くなりながら、こちゃこちゃと悪戦苦闘している。
 「下手くそ」
 分野によって器用と不器用がはっきり分かれる沖田は、ボタンに関しては不器用な部類に入るらしい。どうにもコツを掴み兼ねて、ボタンは布に弾かれてばかりだった。
 その横顔の、頬に落ちる青白い影を見詰める。
 「‥‥‥‥‥‥」
 一向に入る気配のないボタンを諦めずに難しい顔をしている沖田は、記憶の中の、幼い頃の面 影を色濃く残している。
 そういえば昔から好き嫌いが激しくて、痩せて小さい子供だった。
 ただ眼だけが、優しそうに笑うくせに頑固な光を放っていた。
 今も、昔も、それは変わらない。
 「――――甲府行きの日時が決まった」
 そう、土方は切り出した。
 唐突な言葉だったが、沖田は今月の始め頃、見舞いに来た近藤がちらりと言っていた話だと見当は付いた。
 「何だかんだと準備に忙しいから、これからはそうちょくちょくとは来てやれないかも知れん」
 「――――――――――――」
 報告という以外の何の感情も入らない土方の声を聞き終わると、沖田は結局一つもボタンの入らなかったベストを持ったまま、土方のすぐ隣に腰を下ろした。
 「土方さんは甲府行き、のり気じゃないんですね」
 今の言葉だけで、沖田はどうしてそういう推察が出来るものかと土方の顔に苦笑にも似た笑みが浮かぶ。
 「そう見えるか」
 「僕に隠したって無駄ですよ」
 「隠してる訳じゃないさ」
 確かに隠している訳ではなかったが、公に口に出来るものでもないというのが真実だった。
 鳥羽伏見の敗戦以後、幕府の重臣・勝海舟が実現に向け奔走している、江戸城無血開城の妨げとなる幾つもの要因。その一つが、今では幕府の中でも武闘派の代名詞として全国にその名を知られる新選組の存在だった。
 幕府の名の下、京都で数々の志士、浪士達を治安維持の為に処罰し続けた新選組は、その実力故に倒幕派の恨みを一身に買った格好になっている。親兄弟、親友や同志を殺された恨みはまさに骨髄に徹す如く、到底許される筈はない。敵は何があろうと討ち取ろうとするだろう。
 反せば、その恨みを利用し、敵を欺くことも出来るのではないか。
 恨みを退けたければ、より大きな恨みを買う者を贄に差し出し、それを討たせることで敵の気を紛らわせれば良い。今、徳川家を残すには、その代償となりその変わり身となる人身御供が必要なのだ。
 それを実際に考え、成し遂げようとする者がいる。
 そして、新選組へ甲府城鎮圧の命が下されるのだ。
 これが最も端的で核心を突いた言葉だろう。京都でも江戸に帰ってからも、所詮は矢面 に立たせる為の都合の良い捨て駒までしかない。
 だが、武士とはそれを判っていつつ受け入れるべきものだろうか。
 時代は大きく動いている。
 武士の時代が終わろうとする時、貫く信念と守るべき対象と。
 見極めなければならない。
 「―――それにしても、」
 前を向けたまま思考に沈む土方の横顔を眺めつつ、沖田が不意に手を伸ばして襟にようやく掛かる土方の髪に触れた。
 「また随分と思いきっちゃいましたね」
 沖田と同じく以前は頭の高い位置で結わき垂らしていた黒髪が、今は散切り(ざんぎり)という言葉のまま、首の辺りでなくなっている。
 武士の象徴でもある長い髪を切る。その行為を行わせた本当の理由は、沖田には判らない。ただ江戸へ帰ろうとする大坂で見た土方の、昏い光りの灯った眼が思い起こされた。
 「武士に、未練はないんですか?」
 「未練か」
 呟いて、ふと土方は笑みを浮かべた。
 その儚い笑顔を、沖田は黙って見詰めた。
 判らない何かを必死に読み取ろうとする真摯な瞳で、ただじっとその横顔を見詰めていた。

 

 

 

 慶応四年三月一日。江戸城を目指し進軍する東山道軍から、関東への入り口であり要所でもある甲府城を死守せんが為、新選組は公の名を甲陽鎮撫隊と称し、江戸を出発した。
 長く連なる隊士の列は新しく購入した銃器を持った者や、洋装を取り入れた者がおり、不安に駆り立てられた沿道の人々の好奇の眼を引いた。その列の中には、近藤勇と松本医師を説き伏せて参加した沖田総司の姿もあった。
 一行は甲州街道を西へと進み、内藤新宿に一泊した後、二日には日野へと入った。
 近藤や土方らが来ると知らせを受けていた日野では、地元の英雄を迎えようと歓迎の準備が整えられており、村を上げての歓待に立ち寄った佐藤家では昼日中から盛大な酒宴が催された。
 大広間には近藤を始め、先の戦に生き残った幹部全員が一同に並び、土方の姉夫婦である佐藤彦五郎夫妻の歓待に答えようと次々に杯を空けていった。無論その席上には沖田の姿もあり、馬上だったとはいえ入院生活から急の遠征に心配する近藤に、「大丈夫です」と言って笑いながら酒宴の様子を眺めていた。
 一方、この席に居なくてはならない筈の土方は、挨拶もそこそこに武装を解くと、街道に出て斥候からの連絡を待っていた。
 「敵軍の姿は未だ見えておりません」
 内藤新宿に泊まると決まった際、先駆けて甲府城へと先行させた隊士の報告に土方は小さく頷いた。
 「そうか。ご苦労だった」
 早馬を飛ばして甲府城から取って返してきた隊士によく休むよう指示し、遠く聞こえる酒宴のざわめきに苛立ちの隠れた表情を更に曇らせた。
 甲府城からまだ敵の姿は見えない。
 だが、そんなことに安心は出来ない。鳥羽伏見での勝利に勢いずく敵軍の侵攻は迅速に進むだろう。猶予あと何日か。手勢も軍備も圧倒的に不利と思われる中、甲府城を敵に取られでもしたら敗北は火を見るより明らかだった。
 こんな所で時間を潰している暇はない筈だ。
 その苛立ちを奥歯で噛み締め、土方は再び佐藤家の式台を上がった。
 とりあえずは皆のいる大広間へと足を向け、勝手知ったる廊下を歩いていくと、ぴったりと障子の閉まった部屋から酷い咳が聞こえた。
 「!」
 息付く暇もないような酷い咳に、土方はその部屋の障子を開けた。
 まず目に飛び込んだのは、畳に突っ伏す背中とその背中越しに見える赤い血溜まりだった。
 「総司!」
 この部屋に駆け込むだけが精一杯だったのか、沖田は障子を開けたすぐの所に倒れ込んでいた。背中を震わせて咳き込むたびに大量 の血を吐く。土方が懐の手拭いで口元を押さえても、ごぼりと口から溢れ出る生暖かい血はすぐにそれを濡らした。
 大量の吐血。今までも何度か啖(たん)に血が混じったり少量の血を吐いたりしたことはあったが、こんなに酷い吐血は初めてだった。
 土方は止まらない咳と血を吐く苦しさに涙を流す沖田の口元を押さえ、痩せた背中を撫でてやる以外何も出来ない自分の無力さに顔を歪めながら、ただ発作が治まるのを待った。
 震える背中が、一つ小さな咳をしてようやく深く息をした。
 口元を押さえる土方の手をその上からきつく握り締めていた沖田の手が緩む。俯き加減だった顔が自分を支える土方の顔を捜して、ゆっくりと振り向いた。
 「――の…あ‥‥、だまで―――――」
 口元の血を拭いつつ土方が手拭いを取ると、
 「この…あい…まで――何とも、…かったのに、ど…したんだろ――――」
 沖田は薄く笑ってそう言った。
 「‥‥‥‥‥‥」
 土方はただ黙って、手拭いを脇に置くと親指の腹で沖田の頬を濡らす涙を拭った。
 「―――行きますから」
 不意に強い声音で、沖田が土方の袖を掴んだ。
 「ぼくも‥‥、僕も皆と一緒に甲府に行きます…っ」
 泣いたせいで幾分か赤い眼が真っ直ぐに土方を見る。
 「‥‥ああ」
 「絶対に、」
 濡れた血が乾きかけた手で土方の肩を掴む。
 「絶対に付いていきます、大丈夫ですからっ、置いて行かないで下さいっ」
 縋り付くよう必死に懇願する沖田に「ああ」と頷きながら、土方はその細い身体を強く抱き寄せた。
 「ああ、連れていくさ」
 もともと小柄だった身体が、更に小さく感じられた。
 土方を捕らえる腕も、本人の意思に反しその力が急速に失われていくのが判る。
 残された時間は、もう長くはない。
 「―――…いやだ、」
 身体を支える土方の腕をきつく握り締め、沖田は不安に駆り立てられるように必死にしがみついた。
 「一人で残されるなんて絶対に嫌だ―――――」
 休んで下さい、と宮坂さんが言った。
 病気を治す為に今は我慢して、休んで下さいと言った。
 僕は大丈夫ですよと言って、稽古を続けた。稽古をしている時だけ、背筋を這う不安を感じずに感じずに済むからだ。
 始めは、ただ『病気か』と思った。死ぬと言われても、あまり自覚がなかったのだ。死は日常、常に付きまとっているものであり、もしかしたら今日斬り合いで死ぬ かも知れない中で、病気と言われてもあまりピンとこなかった。
 それがすぐ目の前、自分の行く末に待ち構えているものだと、本当の意味で理解できたのは鳥羽伏見の戦いで後方に退かねばならなかった時だった。
 一人、部屋で寝ていると、廊下を走る人がおり、戦支度に追われる人がおり、ざわめきは止むことなく続く。
 そして自分は、ただ延々と部屋で寝ている。
 ただ死ぬまで。
 日々を数えて時を数えて、そしてただ生きていく。
 「…いやだ―――――」
 土方さんが髪を切った理由さえ自分には判らない。
 ぷっつりと切られた髪。
 僕の髪は、時間を計るように肩を過ぎて尚長く伸びている。
 土方さんが髪を切った本当の理由も、
 武士に未練がないのかと問われて浮かべた笑みの意味も、
 閉ざされた部屋で、ただじっと待っているしかない自分には判らないのだ。
 戦いの中で死んでいく人達。
 部屋の中で死を待つ自分。
 同じ死というもの。
 だからせめて、
 「―――‥‥一緒にっ」
 今はただそれだけが望みだった。
 「一緒に行く―――――」
 「判ってる」
 強く、誓うように土方が呟く。
 「絶対に連れて行ってやる」
 だが、土方の言葉に昏く覆い被さるように、沖田が再び少量の血を吐いた。
 死に捕らえられた沖田の頬は青白く、苦しいのか悔しいのか、涙がまた流れ落ちて、その顔色を一層青白く見せた。
 そんな頬を捕らえ、掻き抱く。
 「例え背負ってでも連れて行ってやる」
 それが土方に残された唯一の為す術であったかも知れない。

 

 

 黒く深い静間に包まれた夜が明け、ひんやりと煙る朝靄を東の空に白み始めた光がようやく映し出す頃。
 土方は軍装に着替えると庭先に繋いだ自身の馬を引き、他の者に悟られぬ よう馬を宥めつつ、沖田にと割り振られた部屋に向かった。
 昨日大量の吐血をした沖田は、直後に気を失い、そのまま高熱を出して床に伏していた。その後辛うじて意識は戻ったものの、起き上がることすら自分では出来ない沖田は、それでも隊士として共に行動したいと懇願した。だが、沖田の病状の回復を待つことは出来ない。むしろ、これ以上の行軍の遅れが致命的な結果 を生み兼ねない今の状況を考慮し、甲陽鎮撫隊本体は沖田には黙って昨日の内に八王子へと進軍していた。今、倒れた沖田と共に佐藤家に留まっているのは、土方と極少数の隊士達だけであった。
 土方は手綱を縁側の柱に軽く結わき付けると、足音も発てずに廊下へと上がり、部屋の障子を開けた。
 十畳間にぽつんと引かれた布団の上に、沖田が眠っている。
 苦しげな寝息は聞こえない。
 しかし、随分急に頬の肉が削げ落ちたように見えた。
 土方は布団の横に膝を付くと、土方の気配にも気付かず眠る沖田の肩をそっと揺すった。
 「総司」
 「―――――ひじかたさん…」
 「来い、総司」
 薄っすらと目を開けた沖田の肩の下に腕を差し込み、力の入らない身体を手伝って上半身を起こした。その肩に手に持っていた羽織をかけると、立ち上がろうとする沖田を抱えて馬に乗せた。
 沖田は、何処に行くのかとは訊かなかった。
 土方は自分も馬に跨がると馬首を巡らせ、ゆっくりと歩かせて佐藤家を後にした。
 朝靄の中、懐かしい光景がいつまでも続く道を行く。
 土方にとっては幼い頃から遊び回った場所であり、沖田にとっては出稽古の為によく通 っては子供達と一緒に遊んだ場所だった。
 「懐かしいですね…」
 ぽつりと呟いた沖田は、馬上で姿勢を維持することさえ既に辛いらしく、土方に背中を預けていた。
 寄り掛かる身体の重みで失われた体力の程を知る。
 震える身体から吐き出された大量の血。
 口元を押さえた布越しに手を濡らす血。
 生暖かいそれは一瞬前まで沖田の身体の一部でありながら、その命をただ奪っていくだけのものだった。
 畳に黒い染みを付け、そしてそれ以上に土方の心に昏い染みを付けた。
 奪われたものはもう戻らない。
 土方は、沖田を支えるようにして手綱を持った手に力を込めた。
 心の中に二つの相反する感情がある。
 剣士・沖田総司としての死に様を考える心と、
 長く自分の側にいた総司を少しでも生かしたいと思う心。
 今日この時を逃せば、沖田は二度と戦場に立つことは出来ないだろう。
 畳の上、どんなに足掻こうと病の死が待っている。
 それが嫌だと言うなら、
 沖田が望むのであれば、例え自分が背負ってでも連れて行く。
 それが土方の出来る唯一のことであり、沖田の望みであるから。
 しかし、
 心の底の、更に奥にしまい込んだ思いもある。
 長く、少しでも長く側にいて欲しいと切に願う。
 沖田の意思を無視すれば、あるいは死なずに済むのかも知れないと、幾度も思った。だがそれは自分を含めた周りの人間のエゴでしかない。だから、沖田のしたいように、沖田の望むままをさせてきた。それが何より正しいと信じていた。
 しかし今になって、本当に沖田を失うのだと、
 失ってしまうのだという事実を目の前に突き付けられた時、自分の心が揺らぐのが判った。
 いや、間違っていたとは思わない。
 これで良かったのだ。
 沖田の望むまま、
 そのままが。
 ただ、どうしても消えない何かが胸に残る――――――
 「‥‥土方さん」
 土方の襟元辺りに頭を預けた沖田が、真っ直ぐに前を見詰めたまま土方を呼んだ。
 「あの先が‥‥、甲府ですか?」
 「ああ」
 馬は歩き続け、いつの間にか周囲を見渡せる小高い丘の辺りまで来ていた。
 木々の枝葉の間から見える西へと続く道の先。連なる丘がいつしか山となり、山と山に隠されたその向こうに目指す甲府がある。
 緑なす大地。散り送れた桜が、山間にぽつりぽつりと色を添えているのが良く見える。朝日に照らされ、靄はもう殆どが消えた。紺青の夜の気配をまだ西に残した空も、もうすぐ澄み渡った色へと変わる。
 薄い雲が長く尾を引いて、ゆっくり西へと伸びていく。
 西へ。
 「―――――――――――」
 何か言いだげに口を開きかけ、何も言えず沖田が口を噤む。
 続く道の先へ、視線は行く。
 ただ、熱に浮かされ鉛のように重い身体だけが取り残されたように、土方の腕の中で浅く息を次ぐ。
 沖田には少し丈の長すぎる羽織に、風に煽られた長い髪が滑った。
 「―――甲府か、」
 言いかけ、また口を噤み、もう一度口を開く。
 連なる丘。緑の山。続く道。
 行きたくて、無理を承知で頼んで、懇願して、
 どんなに惨じめでもいい。それでも一緒に行くと言った甲府が、あの向こうにある。
 あの山の向こう。
 今は遥かな永遠の先となってしまった、あの向こうに。
 「――ああ‥‥、遠いなぁ‥‥―――――」
 そうしてようやく呟いた沖田の言葉を、声を、
 土方は生涯忘れることが出来なかった。

 

 

 そして、その日の昼。
 土方は残っていた数名の隊士達を引き連れ、八王子を越えて今尚進軍する本隊と合流すべく甲州街道を西へと馬を飛ばして行った。
 その中に沖田総司の姿はなく、また見送る列の中にもその姿は見付けられなかった。


 

終     

 

   


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